1976年のワシントンDC。「ホワイトハウス」に近いその大学のキャンパスで、気がつくとすぐ側でニコニコ笑っていたオランドはベネズエラ人であった。いつも物静かですごくスイートなヤツだった。
そのオランドのルーム・メイトのデニスはコロンビア人で、目から鼻に抜けるほど頭の切れ味が鋭く、語学の天才。アメリカに来て英語の勉強を初めてまだ4ヵ月だったが、かなり流暢に喋っていた。
そんな彼らが二人でシエアしている部屋で催す「クリスマス・パーティ」に誘われた。われわれ夫婦、そしてやはり日本の企業から派遣されて、この大学で同じくMBAのコースを取っているご主人とその妻。併せて都合6人。
ちょっとだけオシャレして、彼らのアパートについた頃には雪がちらついてきた。早くも、〝ホワイト・クリスマス〟のプレゼント。
メインデッシュは男二人で4時間ほども前からオーブンでワインをひたひたにしてコトコトと煮つめていく鶏肉料理。それだけの極めてシンプルなクリスマス・ディナー。まずサラダから始まって、すぐにメインでチキンの骨付き。ホロリと骨から鶏肉だけがとれる。すばらしくおいしい。そしてワイン。若い男だけの料理だが十分に五つ星ランクだった。
食後の紅茶から再びワインに移る頃、オランドと話していて、彼がなぜそんなに私に懐いてきたのかがわかった。つい最近まで日本人のガール・フレンドと付き合っていたけど、別れたばかりだったという。つまり、日本人恋しさだったらしい。
一方、デニスのファミリー・ネームは「カーン」といういかにもドイツ人の名前だった。で、遠回しに周囲の情報を探ってみたら、やはり、彼の祖父はナチスのようだった。つまり、ドイツの敗戦後コロンビアへと逃げて来て、亡命したらしい。それ以上の質問はめでたい「聖夜」なので、控えた。
そのデニスは英語の他は母国語のスペイン語は勿論のこと、ドイツ語、フランス語、そしてイタリア語も多少しゃべるという。コツを聞いてみた。音楽が好きなので、レコードの英語の歌詞をメロディと一緒に脳みそにすり込んでしまうんだよ、と言っていた。女性を口説くときに、その文句がそのままで使えるのもアドバンテージだし……とつけ加えて、ウインクした。 〝そんなことオレだってやってらい〟。
ま、彼の場合も「不幸な歴史を持つ国の国民ほど外国語を巧みにしゃべる」という言葉に当て嵌まってくる。いざと言う時、どこの国でも生きていける準備をしているのかも知れない。サバイバル・キットなんだね、きっと。
日本人が知っているいくつかのラテン・ナンバー……『ベッサメ・ムーチョ』とか『キエンセラ』などのスタンダードを〝共通言語“として互いに歌い合って、宴もたけなわ。(われわれの年代には、スパニッシュ、シャンソン、カンツォーネ、カントリー・ウエスタン、カリプソなどいろんな国籍の歌が世に流通していた。今ではロック以外はスイープアウトされて、それこそ〝見る影もない〟。)
窓の外はいったん止んでいた雪がまた降り始めていた。
そのとき、オランドとデニスが交々に「われわれ〝南アメリカ人〟の魂の歌を聴いてくれるか?」……と切り出したきた。彼らは時にはこの「南アメリカ人」という言い方をする。要するに、ブラジルを除けば、すべてスペイン語を喋っているからだ。現実には彼らの国籍がベネズエラやコロンビアでも、この〝結束バンド〟で一つに束ねている。
デニスが奥から一枚のレコードを取り出してきた。ウニャ・ラモスの『コンドルは飛んでいく』であった。サイモン&ガーファンクルが取り上げたことにより、世界的に有名になったペルーの歌である。
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