今までいろんなクリスマスを過ごして来たが、最も心に残っているものの一つはアメリカはニューメキシコ州の「サンタフェ 」でのクリスマスだったと思う。
1994年の12月、 ある女性の友人の電話が、
「この世で一番クリスマスらしいクリスマス味わってみたくない?」
という魅力的な口説き文句で、誘われた先がサンタフェであった。こちらがその気になったのに、その当の本人は急な仕事で同行できなくなった。妻と娘の3人でLAから2時間のフライトでニューメキシコ州の「アーバカーキー」へ。
(ニューメキシコ州の州都「サンタフェ 」)
そこからさらに、車で高地に向かって2時間は走る。ドライブの風景としては、変化とスリルに富み、絶景。深い谷間を抜けたと思うと、突如地平線が遠くでかすんでいるような台地に飛び出る。日本のどこにもない巨大な自然のなかをケシ粒のような我々が行く。
降り立った「アーバカーキー」がすでに高度1,600メートルくらいで、さらに高地の「サンタフェ」は2,194メートルにもなる。つまり、富士山の6号目くらいだ。さすがに頭痛を覚えるほど空気は薄くなる。だが、その分青空が美しく澄み、日の光が宝石のようにきらめいている。
これこそが、アーチストにとってリッチな環境であるらしい。いつの間にか画家、芸術家、造形家、建築家、クラフトマン達を集めてしまった。 ほんの小さな町なのに、町中の半分以上の店がアート・ギャラリー(日本語のギャラリーに加えて、美術工芸のショップも加えた用語)という不思議さ。聞けば、絵画の取引で人口が5万人ちょっとのこのサンタフェが全米でニューヨーク、ロサンゼルスに次いで3位という。
(「キャニオン・ロード」のギャラリーの一つ)
最初この地に入った西洋人は、スペインの宣教師であった。キリスト教の宣教師というのはいつも偵察隊のように未知の土地に先駆けする。その後、この地を統括したスペイン総督が「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」というなんとも長ったらしい名前を付けた。それを思いっきり短くして「聖なる信仰」(Santa Fe)だけになって現在に至る。
つまり、「サンタフェ」はスペインの植民地としてのメキシコの領土であった。州の名がニューメキシコである事がそれを物語っている。その後、アメリカから仕掛けられた「米墨戦争」の戦利品のような形でアメリカ合衆国の領土へ編みかえられた。
そんな勝手な白人たちの領土争いは、先住民族のアメリカインディアンをまったく無視して繰り広げられた。
しかし、ここは依然として彼らの大地である。サンタフェの周囲は、アメリカインディアンのプエブロ(集落もしくは狭義には集合住宅)が多くある。そのため、アリゾナ、ニューメキシコ一帯に住んでいたネイティブ・アメリカンを総称して「プエブロ・インディアン」とも呼ぶ。
この「サンタフェ」の地で、スパニッシュ・コロニアルの〝ウェスト〟とプエブロ・インディアンの〝イースト〟(?)がぶつかり合い、交じり合い、さらに東海岸を経由してビクトリア朝時代のアングロサクソン文化までもが混入したカオス的ミックスアップが行われた。それが、絵画のみならず、住居、家具、インテリアなどにおいて独特の「サンタフェ・スタイル」を創りあげた。
このあたりもアーチストにとっては好ましい刺激とか創発に富む“聖地”であるらしい。
(「コンテンポラリー・プエブロ」の住宅の暖炉)
(ファロリートス)
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