ドアが開くまで叩き続ける


矢沢永吉が3歳のときに母親は蒸発。そして小学2年のとき、広島で被曝していた父親は早逝。以来親戚中をたらい回しにされ、生活保護を受けている祖母の元で極貧の少年時代を過ごした。
小学5年生の時からさまざまなアルバイトを常時やり、中学時代にビートルズを聴き、「雷がドーンと落ちたくらい」の衝撃をうけ、「BIGに成り上る」決意を固めた。
高校卒業と同時にトランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を懐に、広島から最終の夜行列車で東京に向かう。しかし、長時間の移動で尻が痛くなり、横浜で降りてしまう。そこで飲食業のタコ部屋生活から初めて、様々な賃仕事に就き糊口を凌ぐ。その合間に「アイ・ラブ・ユー、OK」を作り、〝ビートルズのレコードを出しているから〟というだけの理由で東芝EMI(現・EMIミュージック)に持ち込むも、「売れない」と断られる。
その後、ロック・バンド「キャロル」を経て、CBSソニーへ移籍しソロで歌う曲の一つがこの「アイ・ラブ・ユー、OK」で、LAでレコーディングをした。

 https://www.youtube.com/watch?v=1Qm0jCUzMdo


その先は詳述するまでもない。

ある人がこう言っている。「世の中には、矢沢永吉を好きな人と、矢沢永吉を知らない人の二種類しかいない」
……つまり、彼を知れば、会えば、誰でも矢沢を好きになるということだ。

まだ現役なのに、残されたたくさんの言葉がある。そのほんの一部を。

──ドアの向こうに夢があるなら、ドアがあくまで叩き続けるんだ。

──成りあがり。大好きだね、この言葉。素晴らしいじゃないか。こんな、何もかもが確立されきったような世の中で、成りあがりなんて・・・せめて、やってみろって言いたいよ。

──みんなお前次第だけど、こじんまり生きていちゃショボイだろう?

──最初、サンザンな目にあう。二度目、オトシマエをつける。三度目、余裕。こういうふうにビッグになっていくしかない。それには、サンザンな目にあった時、落ちこんじゃだめだ。

──お前がどんだけ良い大学入って、どんだけ良い会社に就職しても お前が、一生かかって稼ぐ額は 矢沢の2秒。
※これは、矢沢の若い頃、音楽関係の背広組と話をしていて、口論になった。そのややエライさんが「おい矢沢、調子に乗るな。 いつまでもこの人気が続くと思うなよ」と言い放った。これに対した言葉が「矢沢の2秒」だったのだ。

──『50になってもケツ振りながら マイク蹴飛していたらカッコイイだろうな~』 ※70越してもケツ振っている。


このMayaという娘が歌う「アイ・ラブ・ユー、OK」も好きだ。 彼女の父親が矢沢永吉を好きで、いつのまにか矢沢を歌うようになったという。

 https://www.youtube.com/watch?v=KnX0s2Vm-ho 


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