果実の一滴2021.11.07 01:02ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 月は明るかったが、風が強かった。若者が船窓からのぞくたびに、海一面に三角波が立っていた。若者はマンジリともせず、船室に座っていた。眼は血走り、顔は蒼かった。彼の心の中にも無数の三角波が荒れていた。その三角波の中で二つ年上の人妻の顔が乱れ、形を整え、また乱れた。彼はその人妻をあきらめられなかった。遠くからでも、その横顔を垣間見たかった。 朝、徳島に着くと、直ぐ海岸に沿って走る汽車に乗って、Tという町で降りた。派出所で訪ねてようやく目的の家を探し当てた。女は留守だった。父兄会で小学校へ行ったという。 放課後の校庭は静かだった。窓の外に青桐の植っている教室の窓際で、彼女は八歳の女児とともに、受持の先生と対い合って座っていた。愛児のシツケと教育について語る、女として最も清潔な時間が彼女を取り巻いていた。全く別人のような横顔だった。若者の心から、その時初めて海を渡って運んできたツキ物がおちた。(『人妻』:井上靖)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーたった原稿用紙二枚の作品である。彼の才能をもってすれば、千枚の長編に仕立てることは、いとも簡単なことなのに……。そんな膨大な心と人生の断面を、果実の一滴に凝縮したように思える。なにゆえか?この2つ年上の女性への彼の恋情というのは、彼の人生で最高の沸騰だったのだろうと思う。だから、どうしても書いて残しておきたいが、余りに書き過ぎるととその〝大恋愛〟を穢してしまうし、彼女を多分傷める。だから最もミニマムな〝果実の一滴〟のカタチに纏めた。これを氏の次男である作家・井上卓也氏に問うてみたが、「さあ〜て……」と言ったきりだった。極めて当たり前の反応ながら……。0コメント1000 / 1000投稿2021.12.26 01:16花を贈る 2020.08.01 11:41落雷 砕け散ったプライドを拾い集めてことば、いい話、ワロタ、分析・洞察、人間、生き物、身辺、こんな話あんな話、ショート・エッセイ、写真、映像……などフォロー
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