村上春樹のメタファー

【wording】

村上春樹は好きな作家とか影響受けた作家は?と訊かれて、日本人の作家をあげたことがないと思う。たちどころに挙がるのが海外の作家で、10人以上にもなる。 

「小説家」と「翻訳家」の両方の活動してることが大きな原因なんだろうと思う。
「両方をやっているのは……」と言って、「チョコレートと塩せんべいのようなもの」と。チョコの後に塩せんべい、塩せんべいのあとにチョコと楽しんでいると言う。
そうかしら?
そして、こうも言っている。
翻訳がなければ僕の小説は随分違ったものになっていたはず。翻訳を通して自分は発展途上にある作家だと実感できる」と語って、翻訳そのものを「ほとんど趣味の領域と言っていい」として「学んだのは世界を切り取り、優れた文章に移し替える文学的錬金術とも言える働き」と説明していた。
ほらね、彼の創造工学のなかでは、英語で書かれた海外のものが発想の根源になっているんじゃないの?
その一つのプルーフのようなものが、彼のレトリックだ。西欧の文学というのは鮮やかなレトリックを駆使してナンボというところがある。ところが日本の文学のなかでは、俳句とか短歌のジャンルを別にすれば、レトリックはさほど発達しなかった。むしろ、比喩を使うのは品が落ちるという感じさえあった。
そこへ村上春樹文学である。彼のレトリックの巧みさ……とりわけ彼のメタファー(隠喩)には目を剥く。くっきりと屹立していて誰も寄せ付けない。 


隠喩の能力を〝二つの異なったイメージのジャンプ力〟だとしたら、彼ほど遠くへ跳ぶ人はいない。

 「春、夏、秋、冬と僕はスパゲティーを茹でつづけた。それはまるで何かへの復讐のようでもあった。裏切った恋人から送られた古い恋文の束を暖炉の火の中に滑り込ませる孤独な女のように、僕はスパゲティを茹でつづけた。
(村上春樹:『スパゲティーの一年』)

彼にまとわりつく そういう〝バタ臭さ〟はいかがなものだろうという意見はもちろんある。

 「言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパッっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか?
 (松浦寿輝 ▶︎日本の詩人、小説家、フランス文学者、批評家、東京大学名誉教授。毎日出版文化賞、高見順賞、読売文学賞選考委員)

 言ってることはわかるのだけど、「土も血も匂わない」ことが若い世代にも受け入れ易く、かつ、そのことが英語に翻訳され易く、外国での人気も担保しているといえるのではないのかな?

 次の人のコメントの方がよほど簡明。

 「村上さんは日本の作家じゃないんですね。たまたま日本語で書いている、アメリカの作家ですよ。 作品の舞台が日本でも、登場人物はそばでなくスパゲティを食べる。出てくる音楽は、『荒城の月』ではなく、ジャズであり、クラシック。

 (アルフレッド・バーンバウム:『BuzzFeed』 ▶︎村上春樹翻訳者)

これには物凄く笑ってしまった。

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