【こんな話】
80年代、ニューオーリンズの「フレンチクオーター」でデキシーランド・ジャズの殿堂「プレザベーション・ホール」をはじめとしてゴスペル、R&B,ロックンロールなどのライブハウスを梯子したことがある。……というのは、このニューオーリンズという街は大河ミシシッピが作った巨大なデルタの河口の都市なのだが、このデルタの農村地帯の黒人奴隷が辛い労働を忘れるために歌われていた「ワーク・ソング」の系譜に繋がる「デルタ・ブルース」が醸された土地柄である。そこから上記のような色々なジャンルの黒人音楽を培養してきた〝三角州〟でもあったからだ。つまり、ご当地〝地産品〟の賞味であった。
このミシシッピの上流のテネシー州最大の都市メンフィスはかつては綿花の集荷地であり、奴隷市もあったところで、今でもアフリカ系が多い地域。エルビス・プレスリーはミシシッピの小さな町からメンフィスへ13歳で移ってきた。彼の家は貧乏だったので黒人街に近接していて、黒人音楽のライブに足繁く通った。その素地もあり、とてもナチュラルに最初から片足は「白人の音楽」に乗せ、もう一つの足は「黒人の音楽」に乗せて立っていた。そのことが、黒人の「ロンクンロール」と白人の「ヒルビリー」(カントリー&ウエスタン)を融合させて「ロカビリー」を新たなジャンルとして創り出したのだろう。天才の技……。
19歳の時初めて自費でレコードを作り、ラジオでOAされるやいなや、メンフィスの夜を騒然とさせた。曰く「この歌の上手い黒人歌手は誰だ?」と。
そして、1956年プレスリーが21歳のとき、6枚目のシングルとして発表された『ハートブレイク・ホテル』で今度は全世界を騒然とさせる以上……の衝撃を与えた。
https://www.youtube.com/watch?v=W4euyTDhFnk
この曲によって、本格的に若者文化としてのロックンロールが確立された。「白人音楽のメロディやコード進行というヨーロッパ文化と、黒人音楽のリズムというアフリカ文化とが出会った『ビッグバン』が起こった」と『U2』のボノは語っている。
この曲をイギリスのリヴァプールで聴いていたジョン・レノンも激しい衝撃を受けた。そのときのショックを後年「プレスリー以前には誰もいなかった」と吐露した。つまり、「僕が本当の意味で音楽に目覚めたのはエルヴィスだった。エルヴィスがいなかったらビートルズは誕生していなかった」と後年付け加えている。
プレスリーの存在がビートルズを生み、さらに他の多くのロックンロールミュージシャンを生み出したのは間違いないだろう。
「歴史にifはない」というが、「もしアメリカ合衆国に黒人が連れて来られなかったら……」と考えると、すごい事になる。スピリチャルとかゴスペルは当然としても、ジャズ、ブルース、R&B、ロックンロール、ソウル、ラップ……などをわれわれは知らない。アメリカ人がだけでなく、世界中が知らない。
「プレスリーという音楽的天才がいなかったら」と考えるifも当然ある。
彼の23年間に及ぶキャリアのなかで、そのレパートリーはロカビリー、ゴスペル、バラード、カントリー、フォーク、ジャズなど多岐にわたっている。
プレスリーは〝人種や音楽のジャンルを超えて評価された初めての白人アーティスト〟であった。
「ロックンロール」は大分前からもっと大きなコンセプトの「ロック」のなかに包含されてしまっている。じゃ「ロック」ってなんだと問われても、答えられない。
天才・エルヴィス・プレスリーが属人的に達成していたものじゃないのか?
……とも思うのだが、違うかな……やはり。
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