【こんな話】
「デジャブ」(既視感)というのは幾度か経験している。“あっ、これからこうなって次にはそうなるんだよね”と作用と反作用の道筋がきれいに見えることさえある。今まで経験したことがない筈なのに……。だからといって、それでなにかアドバンテージを獲得しているワケでもない。「スプーン曲げ」が他の事では全く何の役にも立たないのととてもよく似ている。
「デジャブ」と反対の「ジャメブ」(未視感:フランス語で「一度も見ていない」)に襲われたこともある。つまり何度も経験して熟知しているはずなのに、まったく生まれて初めてのことを経験のような感覚。
小学校4〜5年生のころだったと思う。友達3〜4人と連れ立って、汽車で5駅ほどの近くの町まで小旅行をした。またもとの自分たちの駅に戻って降り立った。だが、駅頭からみる駅前の風景はまったく見知らぬものであった。駅名にも間違いがないし、なにより同行した友達が “着いた着いた”とそれぞれに家路に帰ろうとしている。この駅で間違いはない筈なのだ。だが、なぜか私は見知らぬ駅に初めて降り立った異邦人になっちゃっていた。
呆然と立ち尽くすボクの気配に怪訝なものを感じた友のひとりは……
「おい大丈夫か?オレ先に行くぞ」
と声を掛けてきた。 曖昧には応じたものの、自分が“見知らぬ旅人”になってしまったことを彼に告げることは余りに突拍子もないことに思えて憚った。みんなそれぞれの家路(だろう……)へ着きいなくなった。
一人になって、駅舎の入口からちょっとした広場になっている駅前の初めて見る風景を呆然と眺めていた。このままでは家に帰ることができない。脳の中に収納されているはずのその駅前のイメージを呼び出してはみるが、一致するものは出てこない。〝なぜ思い出せないのか〟という「焦燥感」と、なんだかわからない世界に持ってこられてしまったという「恐怖感」に圧し潰されそうになっていた。
広場をゆっくりと歩き、風景のアングルを変えたデータを読み込んでみたり、商店の看板を改めて読み上げたりしてみたけど、その「見知らぬ世界」からは抜け出せる材料は何もなかった。
黄昏が迫って来た。 もう手段はない。通りすがりの人に自分の家の住所を言って、行き方を尋ねた。彼が教えてくれた方角を目指して20歩ほども歩いたときに、突如として〝戻った〟。「見知らぬ世界」から「見知った世界」へ飛び移って来た。振り返ると、あの馴染みのある駅舎がちゃんと見えている。
中国には古より「陰陽二元論」というのがあるが、それに即すれば、この「ジャメブ」とは「陰」なのかしら?そっちへちょこっと出かけていたのだろうか?それとも二つの世界の裂け目に嵌ってしまったのだろうか?
幸いなことに、あれが最初で最後の「ジャメブ」の経験であった。
「デジャブ」にはそれほどの恐怖感はない。しかし、この「ジャメブ」の恐怖感はただごとではない。二度目の経験は勘弁して欲しい。
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