女は存在だが、男は現象にすぎない

【ショート・エッセイ】

単細胞生物の時代はもともとメスしかいなかった。有性生殖になってからもメスがメスを生むというスタイル……「単為生殖」で遺伝子を繋げて行くことはできた。
しかしそれだと、環境の大激変があった時に単一の遺伝子だといっぺんに絶滅してしまう。実際にこの地球での環境の激変で、「生命」の存在自体が失われる瀬戸際が三度あったとする研究者もいる。そうならないために子孫の多様性が必要になる。つまり「ママの遺伝子を他の娘に届けるパシリ」としてメスから作られたのがオスということになる。アダムからイブではなく、イブからアダムを作ったのだ。
その成果は偉大だ。例えばヒトで言えば、23の染色体を2対持った男と女からの子供の染色体は70兆通り!の組み合わせができることになる。

要するに、生物の基本仕様であるメスをドサクサに紛れて無理矢理作り変えたものがオスになっているワケなんだが、そういうブリコラージュ(器用仕事)につきものの不整合や不具合がある。つまり生物学的には、男は女の「デキソコナイ」だといってよい。例えば、「男の赤ちゃんは弱い」というのもそうだし「男性の平均寿命は女性より短い」、「授乳させることができないのに乳房がある」はご愛嬌としても、「性同一性障害」も男性に圧倒的に多い。

あの自意識高い小林秀雄でさえ、「女というものにはとてもかなわない。男は誰でも腹の底ではそう思っている。思っているというよりはほとんど動物的な本能からそれを感じている」(『女流作家』)と直ちに白旗を掲げている。
免疫学の多田富雄はその学識から「女は存在だが、男は現象にすぎない」と見事に的を射抜いている。(『免疫の意味論』 ) 
それを敷衍するかのように司馬遼太郎が「昆虫のオスが昆虫の生態のなかで儚い役割でしかないように、人間においても男は多分に女より希薄にしか人生を生きられず、その意味において流れに浮遊していく根無し草というにちかい」と言っている。

丸々と太った卵子はど〜んと構えている。そこへ一番先に到達しようと、精子は余計なものを極力省き、スピード第一の身軽な体に自分をデザインしている。これが女と男の決定的な位置関係である。つまり、その生命力の低いオスの歩留まりを計算に入れて、女が100人産まれるときに男は100+α人が生まれてくる。だが近代医学の進歩で、男の赤ちゃんでも立派に生き延びる。だからどうしても上記の男の+αの分だけペアリングからあぶれる羽目になる。これが「非モテ男子」問題の根源である。このシリアスな問題、揶揄しているだけでいいの?

どう虚勢を張ろうと、男はデキソコナイのパシリだ。男性に対する女性の巧緻で舐めきった戦術を見れば分かる。「落とされながら落としている女」「少年を男にする女もいれば、男を少年にする女もいる」(映画『プロフェッショナル』 )「大人の色香に必要なものはちょっぴりの訳アリ感と適度な不幸」(壇蜜)などなど悪達者振りはもはや名人芸なのだ。

嬲る(なぶる)」という字は男と女が逆にすべきなんだと思う。
それなのに、男は「女は魔物だ。でもいないと淋しい」(映画『あなたに降る夢』)なんか言っちゃって、全くなさけね〜限りなんだよね。

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