サンタフェのクリスマスin1994


 「この世で一番クリスマスらしいクリスマス味わってみたくない?」という友人のそそのかしで、その気になったら、その彼女が仕事でダメになり、妻と娘の3人でLAから2時間のフライトでニューメキシコ州のアーバカーキーへ。


そこからさらに、車で高地に向かって2時間は走る。ドライブの風景としては、変化とスリルに富み、絶景。深い谷間を抜けたと思うと、突如地平線が遠くでかすんでいるような台地に飛び出る。日本のどこにもない巨大な自然のなかをケシ粒のような我々が行く。
 降り立ったアーバカーキーがすでに高度3000メートルくらいなので、さらに高地のサンタフェに着く頃には、さすがに頭痛を覚えるほど空気は薄くなる。その分青空が美しく澄み、日の光が宝石のようにきらめいている。 これこそが、アーチストにとってリッチな環境であるらしい。いつの間にか画家、芸術家、造形家、建築家、クラフトマン達を集めてしまった。 ほんの小さな町なのに、町中の半分以上の店がアート・ギャラリーという不思議さ。聞けば、絵画の取引で人口が5万人ちょっとのこのサンタフェが全米でニューヨーク、ロサンゼルスに次いで3位という事である。

(キャニオン・ロードのギャラリー)

最初この地に入った西洋人は、スペインの宣教師であった。キリスト教の宣教師というのはいつも偵察隊員のように未知の土地に先駆けする。その後、この地を統括したスペイン総督が「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」というなんとも長ったらしい名前を付けた。それを思いっきり短くして「聖なる信仰」(Santa Fe)だけになって現在に至る。 つまり、サンタフェはスペインの植民地としてのメキシコの領土であった。州の名がニューメキシコである事がそれを物語っている。その後、メキシコからさらに合衆国に編みかえられた。

そんな勝手な白人たちの領土争いは、先住民族のアメリカインディアンをまったく無視して繰り広げられた。ここは依然として、彼らの大地である。サンタフェの周囲は、アメリカインディアンのプエブロ(集落もしくは狭義には集合住宅)が多くある。そのため、アリゾナ、ニューメキシコ一帯に住んでいたネイティブ・アメリカンを総称して“プエブロ・インディアン”ともいう。 このサンタフェの地で、スパニッシュ・コロニアルの〝ウェスト〟とプエブロ・インディアンの〝イースト〟(?)がぶつかり合い、交じり合い、さらに東海岸を経由してビクトリア朝時代のアングロサクソン文化までもが混入したカオス的ミックスアップが行われた。それが、絵画のみならず、住居、家具、インテリアなどにおいて独特の「サンタフェ・スタイル」を創りあげた。このあたりもアーチストにとっては好ましい刺激とか創発に富む“聖地”であるらしい。


 町なかはすでにライトアップされているが、このライトというのが、小さな紙のショッピング・バッグ(のようなもの)の底に砂を敷き、そこにローソクを立てた素朴なもの。燭台といえばいいのか、行灯といえばいいのか…。現地では“ファロリートス”とか“ルミナリア”とか言うらしい。メキシコから入ってきてここらあたりに定着した風習とのこと。この茶色の再生紙を通してほのかにボワ〜とゆらめくあかりが、いかにも心やさしい。




 この“行灯”をすべての道端に、すべての家の軒という軒(プエブロ式なので、水平部分が多い)に、…置けるところにはどこにでも、点々とおかれている。それはそれは、夢のように美しい。 ライトアップとかイルミネーションの「どうだ!」という感じではなく、暗い闇と折り合いをつけながら、自らが蛍のように発光をして、息づいている「灯り」が魅惑的である。

 そのファロリートスが点々とある通りを大勢の善男善女が白い息を吐き吐き、クリスマス・キャロルを歌ってゾロゾロと歩いている。町の辻々に焚き火が設けられていて、人々はときどき暖を取り、再び態勢を取り直し、またそのゾロゾロに加わる。仄かなあかりと木の燃えるにおい、時折の木のはぜる音、そしてギュッと身が引き締まるような寒気以外はなにもない。

 

ちょっと離れた町の大聖堂(カテドラル・フランチェスカ)ではミサが行われている。賛美歌のオルガンが時には遠くになったり、時には近くになったり聞こえてくる…。 ●サンタフェの大聖堂 2000年前にもあったであろう自然で素朴なものたちが、一層、人々を敬虔にさせ、厳粛にさせ、癒す。 

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