「生きるとはどういう事か、復讐の夢をみることである」
(ポール・ゴーギャン:最上段は自画像)
うむ!と思う。ただ続いて、「ーそして、夢みるだけで満足しなければならない」となる。
なんだ……大上段に振りかぶった刀を丁寧に鞘に納めているのか。
NYのMoMAへ「ピカソ」を観にいって、ほんの通りすがりの感じで「ゴーギャン」を観たことがある。黒味が多いちょっと不思議な絵であった。
後から知るのだが、これらを「クロワゾニズム」と呼ぶらしい。「クロワゾン」という「仕切り」とか「七宝焼き」を意味する言葉から来ている。言われてみれば、黒の縁取りをして、そのなかを平板にべたっ!と塗る。遠近感を抹殺している。浮世絵の影響という人もいるが、まさに「七宝焼き」。
ゴーギャンの生涯は荒れ狂う疾風怒濤だ。ナポレオン三世のクーデターで身の危険を感じ、一家はペルー(母親の母国)へと逃げるが、その航海で父親は死んでしまう。ゴーギャンがまだ4歳の頃。それ以降53歳まで、住んだところがフランス国内で5〜6ヵ所、デンマーク、パナマ、カリブ海の島、仏領ポリネシアのタヒチをはじめとする5つの島々。デンマーク人の妻との間に5人の子ども。(後ほど別れる。)タヒチなどでの〝現地妻〟が3人。彼女たちとの子どもも2〜3人。職業は商船の水先案内人、フランス海軍、株式仲買人、そして日雇いなど幾多。眩暈がするほどの波乱万丈。
株屋の時代が彼の人生で最も裕福な時期だったが、1882年のフランスの株暴落でそれも失い、他に選択肢がなく趣味でやっていた絵を描くことを職業に。このことが彼の生涯続く困窮、妻との不仲、離婚に繋がっていく。困窮していたからこそ、生活費のセーブでポリネシアで暮らしたのだ。
ポリネシアで描き溜めた絵をパリに持って来て展覧会を何度やっても、不評と悪罵以外のものは何も得られない。「復讐の夢」を見ることだけが彼を支えた。絵を描くことだけが生きる理由だった。
画家としての才能をあくまで信じる傲慢さと、作品が理解されない苛立ち。その苦悩の末にたどりついた境地が大作『我々はどこから来たのか われわれは何者か 我々はどこへくのか』(2段目の絵)に込められているとされている。
2015年、ゴーギャンの『いつ結婚するの?』(3段目の絵)が史上最高値の355億円で取引された。これで、ゴーギャンの復讐を成ったのか?
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