才能は過剰ではなく欠落だ


アメリカ人はHe is gifted.という表現をよく口にします。天や神から優れた「資質」を〝贈られている〟ことを含意として、「才能ある」「天才だ」という意味合いになる。

だが、村上龍は「才能とは過剰ではなく欠落である」(『ラッフルズホテル』)と反転させている。

だが考えてみれば、「過剰」も「欠落」も〝神の差配〟のワケで、相反することと考えなくてよくて、コインの表裏ぐらいに考える方が正しいのかも知れない。
たまたま「欠落」をgiftedされても、ありったけの能力を動員し、なんとかその「欠落」を雪ごうとすることが高品質な表現や思考に結びつく……いや、それこそが真髄であり正攻法なのだと村上龍は言っているのだ。

 「ときどき、自分にはなにか不具合があるような気がしてならない。誤配線、欠陥部品、製造ミス。ほかの人は、私にはなにか特別なものがそなわっているのだろうと考えるのかもしれないけれど、そうではない、きっとなにかがたりないのだ」(デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン:『ノーと私』)

これは作者自身の投影だ。13歳で己を「欠陥品」かも知れないと考えるというのもなかなか辛いものです。
……でも今現在は、「才能とは美しい欠落」と思えているのかもしれない。

何せ、人間に与えられた能力の総和は誰もが一緒だという。「何でもソツなくこなすことができる」という対価は「他の人よりズバ抜けた才能もない」ということになるということだから……。


†デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン:フランスの小説家。『ノーと私』で受賞し以後本格的に活動。この小説は、ホームレスの少女「ノー」と、飛び級で高校に通う13歳の「私」の物語。ひとりぼっちで、いつもみんなの輪の外側にはみ出していた私は、ノーといるときだけ世界にくっついていられた……。 



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