【こんな話】
ニューヨークのパーク・アベニューと53丁目が交差する辺りに「フォーシーズンズ」というレストランがある。このNYでも超一流と言われているレストランだという。(今もあるのかどうか?)博物館のように広大で、その上天井が恐ろしく高い。天地に所在がなく、落ち着かないこと夥しい。
アレンジしてくれた人が、「是非という人をこの『フォーシーズン』か『瀬里奈』に誘って断られるってことはほとんどない」と言っていた。つまり、個人で散財するのにはバカバカし過ぎる料金ってことだ。でも一度は行ってもいい、みたいな。さっすがNY、“社用族”の横行跋扈は東京と同じだ。
1997年6月。そこで、グローバルIT企業を担当している広告代理店の営業局長からヒアリングをしていた。デープボイスで気取った喋りをするその営業マンの視線があらぬ先に彷徨うようになり、“あらっ、質問が核心を衝き過ぎてコイツ狼狽えたのか?”と思った時に、その彼が小声で「Princess DIが……」と言って眼で斜め前方あたりを指した。
1993年から96年ぐらいまでアメリカの西海岸に住んでいたのだが、その間ずっと週刊誌とかタブロイド新聞でダイアナ王妃がトップを飾っていたような気がする。彼女自身のことだけではなく、チャールスとカミラのことも含めて……。“こいつらイギリス王室から逃れて新大陸に来たはずなのに、どんだけRoyalが好きなんだァ?”って白い目で見ていた。離婚後もダイアナは色んなラブアフェアで現役を続けていた……。
この「フォーシーズンズ」の時には、ダイアナのドレス79着をNYの「クリスティーズ」でオークションに掛けるということで、彼女自身が“人寄せパンダ”でNYへ出向いてきたのだった。そのことをTVの司会者の女性から取材を受けているところらしかった。
(上の後ろ姿の写真はそのオークション会場から退出するとき……)
プリンセス・ダイアナの方角を我々は気にしいしい、ヒアリングは進んでいく。……と、彼女たち二人のランチは終わったらしい。スっ!とダイアナが立った。た、高い。ライトグリーンのスーツだった。それが彼女のブロンドによく似合っていた。その当代きってのオシャレな生き物がボクたちの方に向かってくる……ほんの1メートル半くらいの脇を元Princess of Walesが緑の風になって吹き抜けていった。
彼女が歩くところは魔法に掛かったかのように皆息を潜め、身を固くするので、背景はいつもストップ・モーションの静止画になるのだなということをその時に知った。
その二ヶ月後の1997年8月31日のパリ。エジプト系英国人と一緒のところをパパラッチに追われてダイアナはパリ市内の地下道の側壁に激突して脳損傷で死んだ。その現場には9人のパパラッチがいたが、誰一人としてダイアナを助けようとはせず、写真を取り続けていたという。彼女の最後の言葉は Leave me alone!(私に構わないで!)ではあった。享年36歳。
常々「人々のプリンセスでありたい」と言っていたけれど、この死により永久保存のプリンセスになったという気はする。
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