子を連れて西へ西へと

【wording】

━━「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
━━「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの


歌集『サラダ記念日』にあったこの2つの歌ぐらいで、私の俵万智のファイルは厚めのフォルダへ投げ込んであった。破天荒な280万部で「社会現象」といわれた歌集からたった2つとは情けない。

それが気がつくと、『サラダ記念日』の後、エッセイとか翻訳とか他の歌集の他に 第二『かぜのてのひら』、第三『チョコレート革命』、 第四『プーさんの鼻』、第五『オレがマリオ』 と歌集を出し続けてきていた。「サラダが美味しいというなんでもないことが、歌にすることによって記念日になる。それが私にとっての短歌」と言っているくらいだから、短歌を詠むのは彼女が「生きる」と同義語なのだろう。
「短歌そのものの原稿料で食べているわけではないが、『短歌を作る私』にくる仕事の依頼では食べている」とは言っている。これは歌人で成立させてゆく困難さを示しているが、歌人の歌人たる所以をきっちりと勤めて来たということだ。

彼女の短歌、対談やエッセイから受け取るものは、言葉の感受性と言葉のチューニングさは歌人として当たり前のこと。それより、驚くのは彼女の聡明さとポジティブさだ。歌壇から「否定精神がない」や「そんなに健やかでいいのか」という批判はあっても「全肯定で行こう」という確かな決意があるように思う。

例えば啄木に代表されるように、短歌における失恋は湿っていて暗かったものだが、彼女のものは不思議と明るい。明るいとは肯定であり賢さの発露だと思う。

━━寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら(『サラダ記念日』)
━━焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き(『チョコレート革命』)
━━贈られしシャネルの石鹸泡立てて抱かれるための体を磨く(『チョコレート革命』)
━━水蜜桃(すいみつ)の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う(『チョコレート革命』)

この辺りのことを穂村弘との対談で、披露していたが、「嫉妬の感情はほとんどない。それを男の人は誤解するが、心が広いだけで愛は浅くない。つまらない人を所有するなら、すばらしい人をシェアしたらいい」と。

そして、彼女はは2003年に未婚のまま、男児を出産した。息子とともに両親がいる仙台に引っ越し、東京での仕事を日帰りでこなしていた。
そして……、2011年3月11日。
「あの日は都内の新聞社にいたんです。会議の最中にすごく揺れて、「仙台で震度7! 号外が出ます!」という情報が飛び込んできたんです。すぐ実家のある仙台に電話したんですが、手が震えちゃってボタンをうまく押せなくて……」

5日目にようやく山形空港経由で仙台入りした。
東京電力福島第1原発事故による放射能汚染が重くのしかかった。着の身着のまま、息子を連れて2人で仙台を離れる決心をした。それをtwitterに呟くと、「逃げ出せるヤツはいいよな……」「もう帰って来るな!」などの反応があり、堪えたという。

━━子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え (『オレがマリオ』)

那覇空港へ向かい、たまたま知人がいた石垣島まで行ってしまった〝孟母三遷〟。
原発事故によるパニックを避けるために政府高官がひねり出したごまかしの言葉「直ちには影響はない」に、俵万智は鋭く反応した。世事を直接的に詠うことをずっと避けてきて、「どんなささやでもうれしさを詠えばそのうれしさが人に伝わって行く」としていた向日性の高い歌人が、初めて見せた顔だ。「後から影響でることもある」ということでしょう?という母の顔だ。

━━まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉( 月刊誌「歌壇」)

「この子はまだ恋も知らない」というのがいかにも彼女らしいが。

今は石垣から宮崎へ移住したらしい。

━━こわいのは生まれてこのかた人前であがったことのない俵万智

舛野浩一がそう詠っている。「人前であがったことがない」だけが怖いのではない。
「嫉妬の感情がない」「常に全肯定のひまわりのような向日性」「自他共に認める聡明な優等生」(大学ではオールA)……これに多分「シングルマザー」というのも入って来る。
まるで、柱時計のバッテリーボックスにこれらの乾電池6個がキチンと行儀よく詰め込まれているようで、それに恐怖する。……恐怖はするが、今一番話をしてみたい人でもある。

━━インスタの桜が騒ぐ幾つもの「いいね」の中に君を見つけて(文藝別冊「俵万智」)

同時代人がゆえに気づかないが、俵万智はもうとっくに与謝野晶子の存在に肩を並べているという。
与謝野晶子の『みだれ髪』が出版されなければ、近代短歌が不自由なものになってしまっただろうとされ、『サラダ記念日』が出版されなければ現代短歌はどこかを漂流していただろう……と。

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