ドーダの人




「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾(しそう)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる崇高な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」
(『様々なる意匠』:小林秀雄:文芸評論家、編集者)

小林秀雄が27歳で批評家としてデビューすることになった『様々なる意匠』のイントロの言葉である。うむむ!と唸ったことを覚えている。

最近、その小林秀雄を、東大仏文の小林秀雄の後輩にあたる鹿島茂が痛烈に批評・批判している文章を読んだ。
「小林には、対象の内部まで入りこんで理解し、その後に批判的に分析するという能力が決定的に欠けていて、なんでもいいから『ドーダ』したいという強烈な自己顕示欲で前のめりになっていた」「小林はドーダしたいがために、ランボーやヴァレリーを翻訳したのであり、批評を書いたのである」とまで鹿島の筆は走っている。

▶︎鹿島茂:フランス文学者、評論家、明治大学教授、著作多数。 †『ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて』(朝日新聞社出版)

さて、「ドーダ」とはナンダ?
この「ドーダ」とは、漫画家の東海林さだおの用語で、「人間の言語的・身体的な表現行為の80%は、『ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう。ドーダ、マイッタか!』という自己愛の表出であるとしています。

その東海林さだおの『もっとコロッケな日本語』(文春文庫)から「ドーダの人々」のごく一部を抜き出してみよう。

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……
喫茶店、ビアホール、居酒屋、レストラン、料亭、スナック、バー、クラブはこの順序で水商売の水度が高くなっていくのだが、水度が高くなるに従って、会話の自慢度も高くなっていくといわれている。 

……
銀座のクラブはドーダの館」とも言われている。 「ドーダの館」では毎日「ドーダの人々」が集まって「ドーダ博」が開催されている。 

「ドーダの館」は飲食日がべらぼに高い。 

したがって、功なり名を遂げた人しか入場できない。 

功なり名を遂げた人は自慢したいことがいっぱいある。 

自慢したくてうずうずしている。 

…… 

「ドーダの館」ではドーダ対ドーダの激しい応酬が火花を散らしている。 

客の一人が何か自慢して、 

「ドーダ」 

と胸を反らせば、もう一人の客が 

「こんなドーダは、ドーダ」 

と応じ、そこへホステスが大きなダイヤの指輪を突き出して、 

「ドーダ」 

と割ってはいり、もう一人のホステスがどれすの胸のところをさりげなく拡げ、こんなおおきなオッパイは、 

「ドーダ」 と見せびらかす。

 ……

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これって、最近の言葉へ翻訳すれば「マウントを取る」ってことなんじゃない?つまり自分の優位を誇示するために、男が女に馬乗りになる。ときには男が男へも……。格闘技で相手の背中に馬乗りになる……さらに敷衍して、自分の方が優位にあることを自慢や威圧的な態度で相手もしくは不特定多数に認めさせようとする態度のことだ。 
でも、ドーダ?「マウント」とか「マウンティング」よりも「ドーダの人」と言う方が幾分〝可愛げ〟が残っていないか。愛してもいいかって分が残っていないか?

それにしても、小林秀雄。

これほど華麗な文章力を持ち合わせながら、当初目指した詩、小説、翻訳からも脱落し、さらに鹿島茂に言わせれば、文芸批評からさえ落ちこぼれている。結局のところ、〝殺し文句ライター〟としてだけで終始したのかしら……。
冒頭の文章も美文ではあるが、「シニフィエ」は大したことがないと思えてきた。新しい発見は何もない。

小林秀雄が自分自身を語り、「最も世間普通の意味での頭の善さが批評には先ず絶対に必要だ」と臆面もない。背中につっかい棒が必要なくらいに、ドーダ!と反っくり返ってみても、次の言葉たちで木っ端微塵だ。

ー「批評家の言うことを聞いてはいけない。これまでに批評家の銅像が立てられたためしはない。」
(ジャン・シベリウス: フィンランドの作曲家、音楽家)

こういうのもあった。
ー「人は芸術家になれない時に批評家になり、兵士になれない時に密告者になる」(映画『バードマン』)

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