骨信仰2020.03.06 12:47故人が仏式で自分が親戚以上であるならば、大概の場合は、斎場(火葬場)に立ち会う。一時間ほどで焼き上がる。親族たちが待つところへまだ余熱を放つ骨になった遺体が披露される。その係員が必ず言うのが、「立派な骨ですね」とか「しっかりしてますね」だ。ここでいつも失笑しそうになる。“骨になってから、褒められて嬉しいヤツはいるのか?”って。「病気が長かったセイなのか、骨はボロボロですね」とか「脆い骨ですね」とは彼は決して言わない。まあ、遺族へのせめてもの慰めがこのような形式に昇華しているのだろうけど。その後も、その係員(昔は「隠亡」と言っていた……)のディレクションで、二人一組で骨を骨壺に納める。残りを係員が手際よく拾って行くが、喉仏を御子仏として総ての骨の上に乗せ、さらにしゃれこうべを天蓋のように覆って全作業終了。 〝生者必滅会者定離〟〝色即是空〟のお経をついさっき聞かされたばかりだ。仏教の教えでは、死んだら全て無に帰するはずだ。なのに、この骨に対する執着って一体どうしたこと?「是空」では決してなく骨に残心たっぷりなわけで。この「骨信仰」は仏教の教義とは根源的には関係ないとは思う。遠く天竺(インド)に生まれた仏教が小乗と大乗に分かれ、中国や朝鮮を経由するうちに変異し、さらに日本に渡って来てから日本の土俗やアミニズムと混淆して今のようなカタチになる過程で、「骨信仰」が混入して来たのだろうと思っていた。 だが、 迷いが出てきたのは、「シャリ」というインド語だ。「骨」のことを指す。それは中国に入り漢字では「舎利」という。従って、釈迦の骨を奉ってあるのは「仏舎利」という。分骨の際、粉々にしたさまが米粒に似ているので、それを粋がりの寿司屋が「シャリ」とか「銀シャリ」といい始めたらしい。 つまり、「分骨」するぐらいだから、骨に対しての畏怖とか愛惜などの念というのは、われわれ日本人だけが持っているものでもなさそうだ。ひょっとして、人類のDNAに刻み込まれたものなのかもしれない。 動物では象もそうだ。ドキュメンタリーで、象が象の墓場に来て多分両親や兄弟の骨を愛おしげに何度も何度も鼻で撫で回しているのを観て、なんだかとても納得した。いずれにしろ、日本人は骨の形を保持しながら遺体を焼くための技術を研哉してきたんだと思う。アメリカにはそんな思想も技術もないことがわかったことがあった。ただただ、遺体を最高火力でガーッと焼くんだなって。30年も前だが、義弟がまだ40代の若さでハワイにて客死した。現地で荼毘に付した。そして姉である妻が最後に受け取ったのは、骨壺ならぬ四角な「ブリキ缶」(昔、煎餅が入っていたような……)に入った「遺灰」であった。このとき「遺骨」の意味合いが初めてわかった。「死して土に還る」前の〝踊り場〟を「遺骨」は作ってくれているものなのだって。遺族が心を折り畳む時間差をこしらえてくれるのだということを。姉は弟がいきなり「遺灰」になってしまい、どうタイミングを取ればいいかわからずに、その「ブリキ缶」を持ち、目には涙を溜め茫然と立ちすくんでいた。0コメント1000 / 1000投稿2022.09.26 10:10子どもを持つことの恍惚2019.12.05 11:29ハンティントン・ビーチ砕け散ったプライドを拾い集めてことば、いい話、ワロタ、分析・洞察、人間、生き物、身辺、こんな話あんな話、ショート・エッセイ、写真、映像……などフォロー
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