「人もまた、花との共生関係を選んだ種なのです。花とミツバチのような生存的な共生関係ではなく、言うならば、文化的な共生関係を結んだのです」
(猪子寿之)
人にとって、花は僅かな例外を除いては食べ物にもならず、衣服の素材にも、家や道具を作るのにも使うことができないのに、人がこれほど花を愛でるのはなぜなのか?
花や果実をつける「被子植物」は、自分の種の存続のために、他者から選ばれやすいように進化を遂げてきた。その他者というのは蜜蜂や蝶、さらに鳥類や哺乳類も花粉や種子の運び屋になっている。人もなかなかどうしてこれに大いに手を貸している。
──「イネは人間に食べられる、愛されることにより種の存続・拡大を図ってきた」(デイヴィッド・アッテンボロー)
これを最初に聞いたとき、虚を衝かれて椅子から転げ落ちそうになった。が、これは冒頭の〝生存的〟共生関係の範疇ではあるのだろう。この系統では、果物もそうだろうと思う。葡萄に至っては人間にワインまで提供してくれた。 だが、花の場合は〝人から愛でられる〟という一点で彼らの種の存続・拡大を図っている物凄さがある。
現に、日本原産と思われている花木のウメ、サルスベリ、ノーゼンカツラ、キンモクセイ、ロウバイ、フヨウなど多くが中国から人が携えて来たものだし、明治以降はアメリカや欧州などから驚くほど多種多様な花や花木が持ち込まれている。(すでに我が庭の70〜80%は海を渡ってきた種類になっている。)
それらすべてを包括して、〝人と花の文化的共生関係〟という猪子教授の踏み込みは鮮やかな切れ味の洞察だと思う。 花が咲き、風に揺れ、そして散るさまに、人は生への賛歌と死のはかなさを感じて心を震わす。それゆえ、古来より多くの画家が花を描いてきたし、多くの詩人が花を吟じてきたのだ。日本の場合はこれらに加えて、「生け花」というアートのカテゴリーがさらに拍車をかけてきた感じはある。 とにかく、人生と花は切っても切れぬほど濃密に共生している。
──「もしこの世の中に、風にゆれる『花』がなかったら、人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。……」(中原淳一)
見巧者って本当に凄い。このような鮮やかなプレゼンテーションをさらりとしてくれて有無を言わせない。
そこへいくと、これはちょっとどうだろう。未練でしょう、これって?
──「……別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。 花は毎年必ず咲きます。」(川端康成:『化粧の天使達』)
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